第40回
京阪・文化フォーラム
歌川広重の浮世絵により東海道は五十三次だと思われがちですが、本来は五十七次であったことが判明しています。東海道五十七次のハイライトであった大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿の五宿の歴史を繙(ひもと)き、その魅力に迫ります。
- 平成29年9月30日(土)13時~15時40分
- 枚方市立メセナひらかた会館
- [講演] 「東海道五十七次のハイライト『大津宿〜守口宿』の更なる発信を目指して」
- 東海道町民生活歴史館 館主兼館長
志田 威(しだ たけし)氏
- [講演] 「淀川三十石船舟唄」
- 大塚保存会
- [講演] 「枚方宿、枚方宿にまつわる京街道及び淀川舟運あれこれ」
- 宿場町枚方を考える会会長
堀家 啓男(ほりいえ ひろお)氏
東京・日本橋から大坂・高麗橋までを繋ぐ、東海道五十七次。江戸時代の風物を現代に伝える東海道の楽しみ方や、京都・大坂間の四次の魅力に加え、枚方宿にまつわる興味深いお話、さらには淀川舟運の公演までじつに盛りだくさん。会場に訪れた方々も、大きく頷きながら真剣に耳を傾けている様子が印象的でした。
■第1部:講演「東海道五十七次のハイライト『大津宿〜守口宿』の更なる発信を目指して」
第1部は元JR東海不動産株式会社社長であり、東海道町民生活歴史館 館主兼館長の志田威先生によるご講演です。まだまだ知られていない「東海道は五十七次だった」という事実を広めるためにどうしたら良いのか、東海道の楽しみ方を交えてお話しされました。
1843(天保14)年の調査記録である「宿村大概帳」は東海道編をはじめ、中山道、甲州道中など主要街道ごとにまとめられ、当時の全宿駅が記載されています。その中でも東海道は五十七次として掲載されているのですが、江戸時代後期の人気浮世絵師・歌川広重による「東海道五十三次」が大変人気となり、こちらばかりが広がってしまったのです。
東海道をはじめ旧街道には、江戸時代の建物や家具等が一部現存しています。改めてこれらを目にすると「ああ、これが日本の生活だったんだな」と感慨深い気持ちに浸れることでしょう。とくに注目したいのが、後の「江戸城無血開城」へと繋がる歴史的遺構が東海道の間の宿・西倉沢に残っていること。幕臣・山岡鉄舟が西郷隆盛と直談判をする際、15代将軍・徳川慶喜が鉄舟へ護身用にと手渡したとされるピストルが残されているのです。
また旧街道の楽しみ方として、国が重要だと選定している場所を中心に探訪するのも楽しいものです。東海道では、文化庁が指定した重要伝統的建造物群保存地区は「関宿」と「間の宿・有松」の2か所、旧建設省が選定した歴史国道は「間の宿・岩淵〜蒲原宿〜由比宿」、「藤川宿」、「関宿」の3ヵ所となっています。
現在でも、大津宿〜守口宿を訪れることで当時の文化に触れられます。一般に公開はされていないものの、枚方では江戸時代の古い建物の構造などを知ることができますし、「市立枚方宿鍵屋資料館」では予約をすれば当時食べられていたごんぼ汁をいただくこともできます。
志田先生は、そんな魅力あふれる大津宿〜守口宿の更なる発展を目指し、「国民が関心を引くキーワードなどをポイントに発信していくべきではないでしょうか」とご提案。宿ごとの発信というよりも、地域的発信で東海道五十七次を打ち出していく。マスコミや関西出身のタレント、インターネット等を活用して積極的に発信していくことが重要だと真摯に語っていらっしゃいました。とくに、鳥羽伏見の戦・幻の大坂遷都に関係する当地区は大政奉還150年(平成29年)・明治150年(平成30年)となり、この1年が絶好のチャンス。「東海道は五十三次ではなく五十七次だった」を掲げ、早急に広域的にアピールしていくことが肝要だと感じたご講演でした。
■第2部:講演「淀川三十石船舟唄」
休憩を挟んで第2部は、大塚保存会の皆さんによる「淀川三十石船舟唄」の公演が開催されました。京都伏見から大坂八軒屋まで運行していた淀川三十石船。船頭4〜6名、定員28名のこの船の運行数は多い日で百数隻にものぼったそうです。
船頭が船出の合図がわりに歌ったとされる舟唄は、じつに特徴的な節回し。船頭たちが舟を漕ぎながら「ヤレサー」と朗々と歌い上げる様子を見ていると、当時の淀川の風物が思い浮かびます。途中「くらわんか舟」に乗った物売りが、客席にまであんころ餅を投げてよこす演出もなされ、観客の皆さんも大いに沸き拍手喝采の中公演が終了しました。
■第3部:講演「枚方宿、枚方宿にまつわる京街道及び淀川舟運あれこれ」
第3部は、宿場町枚方を考える会会長・堀家啓男先生による、枚方宿や京街道にまつわるご講演です。当時の資料を交えながら、枚方宿の魅力や地元ならではの知られざる歴史的事実を楽しくお話ししてくださいました。
徳川家康が1615(元和元)年の「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼしたあと、京街道の伏見、淀、枚方、守口の4つの宿を指定。これにより、淀川舟運と合わせて枚方宿は陸路でも交通の要所として発展しました。
枚方宿は基本的には幕府領で、4つの村で構成されていました。人馬継立のために100人100疋を用意するのは大変な仕事で枚方宿だけではとても対応できず、多くの村々が助郷に。助郷村としては「本当は農業をしたいところ、無理に借り出された」という気持ちが強く、宿ともよく揉めたそうです。
また、淀川舟運も発達していたことから、上りの客は枚方宿にて泊まってくれるけれど、下りの客はわざわざ宿で泊まらずに舟で帰ってしまうということもあり、方宿と呼ばれて経済的には大変厳しい状況でした。
現在の見所としては、枚方宿鍵屋資料館がまず挙げられます。船宿を活用した建物となっていてさまざまな資料も展示しているので、ここで勉強し、枚方宿を歩くとより深く歴史を感じることができるでしょう。
また、枚方公園から西に少し行くと「西見附」があり、こちらも歴史が感じられる部分です。この見附により宿内を見通しにくくなっていて、さらにその近くの浄念寺も枡形で見渡せない構造に。そこから蛇行して問屋場へと続いているので、当時の土地を思い描きながら歩くのもまた楽しいかと思います。
当時の枚方の農民たちは素晴らしかったのだな、と思える記録が、1720(享保5)年の柿木家文書の絵図の一部に描かれています。枚方宿西見附から出口方面への街道筋が淀川堤上につけ替えられており、集落の間に蛇行して通っていた旧来の住還筋が新田に替えられたと読み取れるのです。これは「この荒地を開拓して田んぼにしよう」と考え、文禄堤を移設して堤防を川沿いの方に移させてもらえないかと申請し、許可をもらって開拓したということ。農民がしっかりと自分たちで考え、行動できたというのは本当にすごいですね。
明治になると政府の方針で蒸気船が行き来するようになり、第2部で公演されたような三十石船は後退していきます。枚方では枚方浜だけが蒸気船の停泊地となり、鍵屋も切符の販売をして乗降場所となりました。多いときは1日8隻の出入りがあったようです。とはいえ、船での往来はやはり不便なもの。1910(明治43)年4月15日に京阪電車が開通した際には沿線各地でお祝いのお祭り騒ぎだったそうです。そういった意味では、枚方にとって京阪電車は文化の象徴ということかもしれません。今日では、災害時の輸送や観光面で、淀川舟運が再び大きく脚光を浴びています。
京都と大坂を繋ぐ四次の存在は、関東などではまだまだ知られていません。枚方宿をはじめ魅力溢れる東海道五十七次を、当時の情景を想いながら歩いて見聞を深め、後世に面白さを伝えていきたいと感じたご講演でした。
京阪・文化フォーラムは、今後も様々なテーマで開催いたします。みなさまのご参加をお待ちしております。
- 京阪グループ開業110周年記念事業「記念フォーラム」
- 第44回 京阪沿線の城と歴史発見
- 第43回 明治維新と東海道五十七次
- 第42回 花と建築 建築と華
- 第41回 今、なぜ明治維新なのか。〜西郷どんの実像〜
- 第40回 東海道五十七次と大津宿・伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
- 第39回 大政奉還、鳥羽伏見の戦い
- 真田幸村の足跡を辿る —九度山から大坂の陣まで—
- 第38回 国宝 石清水八幡宮本社
- 真田丸の戦略と真田信繁(幸村)の実像に迫る!
- 第37回 馬と人間の歴史
- 第36回 光秀と秀吉の天下分け目の山崎合戦
- 第35回 中世の京都町衆と祇園祭
- 第34回 彩られた京都の古社寺
- 第33回 水辺の歴史 大川沿いにある大坂の陣戦場跡
- 第32回 神に祈った武将たち -石清水八幡宮と源平・足利・織田・豊臣・徳川-
- 第31回 天下統一の夢 -信長と光秀の光と影-
- 第30回 信仰とお笑いの狭間に落語
- 第29回 平清盛と平家物語
- 第28回 葵祭
- 第27回 酒は百薬の長 落語は百楽の長
- 第26回 今に生きる熊野詣